Masuk薫子の祈りは言葉にならない叫びとなって、黎斗の体に触れた指先から彼の体内へと流れ込んだ。
その瞬間。薫子の体の中で、失っていたはずの巫女の力が、突然、激しく共鳴した。「……っ!?」
薫子は自分の体から溢れ出す、温かく、神々しい光に驚愕した。
失われたはずの力がみなぎってくる。それが今、黎斗の暴走する黒い呪いの気を、優しく、しかし確実に包み込んでいく。「……う、あああ……!」
黎斗は薫子の光に包まれ、苦悶の表情が次第に安らぎへと変わっていく。彼の体から噴き出していた黒い気が、薫子の光に吸い込まれるように消え失せ、部屋中に漂っていた香の煙も一瞬にして晴れ渡った。
今の香りは、彼が心を落ち着けるために焚いていたものなどではなく、彼の体内から溢れ出た黒い呪いだったのだ。(……鎮まった……?)
薫子は黎斗の体から力が抜け、静かに床に横たわる姿を見て安堵の息を漏らした。自分の巫女の力が、黎斗の暴走を鎮めた。それは、白藤家では決して起こり得なかった奇跡。
(力が戻ったの……?) 薫子は自分の掌をじっと見つめてみた。この手で、彼を鎮めることができたのだ。 自分を助けようとしてくれた彼を、苦しませずにすんだことは、なにより嬉しいことだ。「お前、一体……」
黎斗は意識を取り戻し、薫子を見上げた。その瞳は、先ほどまでの氷のような冷たさは消え失せ、戸惑いと、そして、かすかな驚きを浮かべていた。
「黎斗様の暴走を、鎮めさせていただきました。これでも白藤家のはしくれですから」
薫子は精一杯の笑みを浮かべて答えた。
「……鎮めた? 無能の巫女が、俺の呪いを?」
黎斗は自分の体を確かめた。記憶を失って破壊しつくすこともなく、暴走の後の倦怠感もない。むしろ、これまでにないほど心身ともに満たされている。
「この香り……」
黎斗は、薫子に近づき、彼女の首筋に顔を寄せた。薫子の体から漂う、微かな、しかし、理性を狂わせるほどに甘い香り。それは、黎斗がこれまでに嗅いだことのない、本能を刺激する香りだった。
「……黎斗様?」
薫子黎斗の突然の行動に身を硬くした。黎斗の吐息が首筋にかかり、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。
黎斗は、薫子の香りに瞳を細めて尋ねた。「……お前、俺の番(つがい)か?」
「番……?」
薫子は黎斗の言葉に耳を疑った。 『番』とは――黒竜家において、生涯を共にする、唯一無二の存在である。「そうだ。俺の中の竜がお前を主と認め、お前の香りを求めている」
黎斗は薫子を抱き寄せ、彼女の香りをむさぼるように嗅いだ。彼の竜の翼が薫子を包み込むように羽ばたき、二人の体から温かい光が噴き出す。だが、薫子にまとう不思議な妖気に触れた途端、はじくようにして薫子から離れた。
「……お前は、鈴子の幸せを奪った卑劣な女なのだな?」
黎斗は突然薫子を突き放し、冷ややかに言い放った。彼の赤い瞳は再び氷のような冷たさを取り戻している。急な彼の変貌に薫子は驚いた。番と認められたはずなのに、なぜ、そんなことを……。
それに、鈴子の幸せとはなんだろう? 身代わりに嫁にきたことがいけなかったのか、それとも……。「お前の力は、俺の呪いを鎮めるために役に立つ。だから、鈴子の代わりにこの屋敷へ置いてやる。だが、お前を愛することはない。俺の隣にふさわしいのは鈴子だけだ」
黎斗の言葉は鋭い刃物のように薫子の心を切り裂く。どうして鈴子のことを彼が気にするのか、薫子にはわからなかった。
季節が、ひとつ巡るあいだに、帝都は変わりはじめていた。 長く謎めいた存在として遠巻きにされてきた黒竜家が、その当代の主の手によって、別の顔を人々の前に晒した。 黎斗は、もともと商才に長けた男だった。 軍と剣の影に隠れていたその才覚が、妖を斬る必要のなくなった今、ようやくその本来の場所で、輝きはじめていた。 長年止まっていた黒竜家の交易路を、彼はひとつずつ結んでいった。 北の港から南の海まで。山を越え、川を渡り、絹と、米と、紙と、染料が、新しい街道を行き交いはじめる。雇われる人足が増え、新しい店が立ち並び、空き家だった一角に子どもの笑い声が戻った。 「あの黒竜家のご当主様が、商いの神様らしい」 帝都内で、そんな噂がまことしやかに囁かれはじめた。
黎斗は薫子を抱き上げたまま、ゆっくりと、屋敷へと帰る道を辿った。 薫子の体は軽かった。長い祈りで力を使い果たした彼女は、夫の腕の中で半ば瞼を閉じている。月光が、二人をひとつの彫像のように照らしていた。 「……黎斗様」 囁くような声に、黎斗は足を緩めた。「これからのこの都に、もう、闇は、入って参りません」「ああ」「あなたが、ながいながい年月、たったお一人で背負っていらしたもの——わたくしが、お引き受けいたしました」 黎斗は薫子の額に長い口づけを落とした。「俺は、もう一人ではない。——お前と二人だ。これからは辛
窓の外で雀が鳴いていた。障子の隙間から朝の白い光が薄く差し込んでくる。微睡(まどろ)みの中で、薫子は自分の頬が誰かの胸に押しつけられていることに気がついた。 とくり、とくり、と刻まれる、規則正しい鼓動。あたたかい、生身の体温。 長い夜の終わりに、その温度を確かめるように薫子は薄く瞼を開けた。 黎斗が、隣で眠っていた。 眠っている彼をこんなにも近くで見るのは初めてのことだった。眉間の険しい皺は消えていた。長年、世界中の敵意を一身に受けていた、その硬い表情の代わりに、頬には淡い陽の影だけが落ちている。乱れた前髪の下、閉じられた瞼の睫毛が、思ったよりずっと長くて——薫子は、ふっと、笑ってしまった。(こんなお顔も、なさるのね) 薫子はそっと指を伸ばし、彼に触れようとした時――
褥に薫子の体がゆっくりと横たえられた。 残された薄絹が肩から滑り落ちていく。灯りの光が薫子の肢体を、白い陶器のように浮かび上がらせた。 黎斗はその上にゆっくりと身を伏せた。 彼の唇が薫子の額に、瞼に、鼻先に、頬に——降り注ぐ雨のように口づけを落としていく。やがてその唇は、首筋を辿り、鎖骨をなぞり、薫子の胸の柔らかな膨らみの先へとたどり着いた。彼の唇に尖端が捕らえられた。 薫子の体がぴくりと跳ねる。「あ……ん、っ」 堪えきれず漏れた声に、薫子は自分の口元を手の甲で覆った。聞かれてはならぬような、けれど止められぬような、未知の声だった。&
「あなたが人になられたのなら、今度はわたくしが、あなたの代わりに、あなたを護ります。一生を懸けて」 彼の腕が薫子を引き寄せた。密着すると心音が聞こえる。今、自分の鼓動と重なって、ひとつになっていく。 黎斗の唇が、再び薫子の唇に落ちた。 最初はためらいがちな、確かめるような触れ合いだった。 唇が唇を撫でる。湯あがりの、ほんのり甘い吐息が、二人のあいだで混じり合った。やがて、黎斗の舌が、薫子の唇の合わせを優しく辿る。薫子の体が、びくりと、震えた。けれど抗いはしない。むしろ、おずおずと、彼の熱を受け入れるように唇をわずかに開いた。 その瞬間、黎斗の口づけが深くなった。「……っ、ぁ……――!」
_*]:min-w-0 gap-3"> 支度を整えた薫子は、長い廊下を、ひとりで歩いた。 _*]:min-w-0 gap-3"> 各部屋の障子越しに洩れる灯りが、廊下の板をぼんやりと黄金に染めている。千代は、廊下の角まで送ると、深く頭を垂れ、それ以上はついてこなかった。約束を守ったのだ。——お二人のもとへは、誰一人として、近づけませぬ、と。 _*]:min-w-0 gap-3"> 奥まった主の寝所の前に立った。障子の向こうに、淡い灯りが見える。中で、彼が、待っている。 _*]:min-w-0 gap-3">
「あら……」 先日の鈴子がやってきた事件から3日ほど経った。 着替えを行っていた薫子が、長い髪を結い上げた際、黎斗に触れられ、若干痣になっていた箇所が、小さな竜の刻印のようになっていた。(黎斗様がわたくしに付けた印……) そっとその痣を指でなぞってみると、心臓がとくん、と跳ねる。「薫子様、黎斗様に呼ばれたので、少し離籍いたしますね」 千代が鏡台の前でぼんやりしている薫子に声をかけたので、彼女が我に返った。「あ、ええ。行ってきて。わたくしは大丈夫だから」「はい。すぐ戻ります」 千代は薫子の部屋を後にした。 一方黎斗は書斎で一人、最近の帝都にはびこる妖の動きについての報告書
和館は静寂に包まれていた。古びた木造の廊下を進むにつれ、空気が次第に重く、圧し潰されるような冷気を帯びていく。白藤家とはまた違った寒さを感じた。 薄暗い廊下の突き当たり。重厚な漆塗りの扉の前で薫子は足を止めた。鼓動が全身を駆け巡るように高鳴っている。 (この向こうに、怪物公が……) 薫子は震える手で扉に触れ、ゆっくりと押し開けた。「失礼いたします」 部屋の中は香の煙が立ち込め、霧がかかったように視界が悪い。 その奥、一段高くなった上座に一人の男が座っていた。 黒い軍服に身を包み、完璧な容姿を持つ男。頭に角、瞳は赤く、その背中には悍ましい黒い鱗に覆われた竜の翼が、威圧的に
白藤家を去る朝、帝都を彩る桜は薫子の目には灰色に映った。 彼女が着用している着物は、鈴子のお下がりですらない古びた地味な着物だった。小間使いが着るようなもので、静江からは「黒竜家を刺激しないよう、目立たぬ格好で行け」と釘を刺された。 みすぼらしい恰好で嫁に行っても大丈夫なのか、と心配になるほどに。 出発の差異、白藤家の誰も薫子を見送りには来なかった。父は書斎に引きこもり、静江と鈴子は薫子が去り際、まるで厄介払いが済んだかのような安堵の表情を浮かべていた。 (さようなら、私の地獄……) 薫子は迎えに来た黒竜家の使いの車に乗り込み、一度も振り返ることなく、住み慣れた屋敷を後にし
(わたくしが……あの『怪物公』のもとへ嫁ぐ……?) 日の当たらない物置のような自室から呼び出された白藤薫子(しらふじかおるこ)は、冷え切った大広間で、父の言葉に凍りついた。「鈴子(すずこ)の代わりに、お前が黒竜家(こくりゅうけ)へ嫁げ」 父の視線は、薫子を見てすらいない。 西洋文化を取り入れ、華々しく咲く花のように変わりゆく帝都。その繁栄と平和の均衡を保つのが、人外の力を宿す『黒竜家』だ。だが、その当主は竜化の呪いに蝕まれた『怪物公』と恐れられている。 代々、聖なる力で妖を浄化する巫女を輩出してきた白藤家。 今回の縁談は、強大な巫女の力を持つ妹、鈴子に来たものだった。(な







